「蛙の子は蛙」という諺がある。早川のばらさんの来歴を知ると、この諺のスペイン 語 "De tal padre, tal hijo."(この父からはこの子)をアレンジして、 「この両親、あるいは家 系からはこの子」とでもいいたくなる。が、ここで言いたいのは、 ピエール・ブルデュー の提唱する「文化資本」のうちの「ハビトゥス」(身体化された形態の文化資本)という 概念を、彼女の制作発表が思い起こさせるということなのだ。 例えば、彼女自身の手になるバイオの‘表現’を 見ていただければ、言語的な表現のウィッ トの奥行に、彼女の「ハビトゥス」がいかなるものであったかを 推測することは難しくな い。まずは、その一部を・・・。
要するにこの抜粋からは美術以外にも、様々なことに関心を寄せ、その表現に至る過程の 自由さと、それを書き記す際のユーモアに、彼女の人間性が窺えるだろう。規範的また世 俗的な価値観にとらわれることなく、人間が人間らしく、他者との共感関係の切り結びに よって表現=他者とのコミュニケートの手段を求めていくという「ハビトゥス」をここに 読み取るのである。 さて、本題。今回の、彼女の展覧会タイトルは「回復のちから」。 新作群はどれも、一見、児童向け絵本やイラストブックの作品のようなかわいらしさをま とっている。が、それがただの可愛さでないことは、一目瞭然。 主題は「acid rain(酸性雨)」「derrame(漏出)」「nubarron(雲)」「polución (汚染)」の作品タ イトルも示すように、彼女の住むコロンビア(のボゴタの街)での公害に関わる問題であ るに違いない。が、ここで重要なのは、彼女が告発調の表現を取らないこと。例えば、 「慈雨」という言葉があるように雨を自然の恵みとして受けている人々にとって、酸性雨 の問題は、その問題性に気が付いた時の‘気づき’の問題として提出されている。「machi」 の煙、「nubarron」の雲、「polucion」の雨雲の汚染が、憎めない表情で表現されている が、それは、この事態すべてが、人々が生きるための人為から発しているからで、そこに 人々の営みへの愛着と共に自責の念とジレンマも込められているからではないか。 しかし、根元から伐採された黒い切り株から、一本の細く青い枝葉が延びる作品 「resilience(回復力)」や、無数の切断された樹木の「resilience2」や「woods1」 「woods2」には、一本の樹木に始まるだろう回復の「ちから」への信頼が表明されてい る。それを、生きとし生けるものの生命力の強さへの共感という事はたやすい。そして、
ここが彼女の彼女らしいところ、ここに、その解決の方途は描かれず、問題の投げかけが なされるのである。「woods4」では、一本に一葉が芽生え始めたように、回復を予兆する 森林に「acid rain(酸性雨)」が降るという輪廻が表現されているからである。 彼女の作品は、そのような環境下におかれた人々がなせることは何か、という事を問う。 その際に、彼女は苦しめられた、伐採された森林を、黒々と排出される排煙を、酸性気汚 染物質による酸性雨をも慈しむ。それがすべて人間の生活から生み出されたものであり、 しかも連鎖的な関係下にあるならば、それらすべてへの慈しみ、労りの思いがあってしか るべきなのでは、と。彼女は性急な解決は求めない。このような現状に発する‘思い’の共 感の輪から何が始められるのか、そして、絵画などの文化的な表現には何が可能なのかを も、このユーモラスで穏やかで柔和な表現は問うているのだろう。 彼女の制作=表現は、彼女の住むコロンビアの生活に発しているが、これは都市型生活の 矛盾という点で日本にも共通する課題をはらんでいる。という事を踏まえた上で、彼女の 制作の特徴の一つとして、今回のようなドローイング系の制作のみならず、油彩、コラー ジュ、オブジェ、インスタレーション、パフォーマンス、映像という視覚表現にとどまら ず、音楽も、と多岐にわたっていることを押さえておくのもいいかもしれない。彼女は、 言葉=言説ではなく、生活する表現者として、人間社会が生み出した矛盾を‘優しく’見つ め、そこから喚起される思いを、上記の多様多彩、様々な表現に託すのだ。 展覧会タイトルが「回復のちから」と、「ちから」が仮名になっていることにも留意して みよう。漢字と違い、ひらがな表記の一音ずつを、心に留めるように、丁寧に発語するこ とによって、切り株をはじめとする自然の生命力への慈しみを実感すること。とすると、 彼女の言葉の使い方にも表現の「ちから」に対する信頼があることが窺えよう。こうした 多様な表現への関心の保持、可能性の模索こそが、彼女のハビトゥスのありようなのだと 思う。 そのハビトゥスの源が、日本からコロンビアに移住した造園家と画家の両親の、‘自由な精 神に満ちた’家庭におけるハビトゥスの好影響であったとことのは、間違いないだろう。そ うした両親との生活の中で慈しまれた彼女の作品は、コロンビアのボゴダ市の森林や都市 の現象を、ただ簡略化して写すものではなく、また、告発としてなされたものではない。 逆に、慈しみを知る彼女は、彼女のまなざしの対象の矛盾を観取し、慈しみという優しい 思いにとらわれているのは、上述の通り。 が、ここで少し美術的なことにも触れておかねばならない。 彼女はコロンビア国立大学グラフィック・デザイン科、東京芸術大学美術学部修士課程を 卒業、その後の発表にはインスタレーションなどもあり、いわゆる現代美術的表現にも通 じていたことがわかる。が、今回の制作は、前述したように、一見、絵本やイラストを思 わせるものになっている。従って、この表現は、スタート点や通過点ではなく、彼女なり の現在形の到達点という事を踏まえておかねばならない。そのことは、ブログに紹介され ている同傾向の表現に、心持ちシュルレアリスティックな解釈表現がなされていたりする のを認めれば首肯できるだろう。ハビトゥスによって身体化された彼女の文化的資質が、 美術史的規範、現代美術的表現からの逸脱を促し、彼女の今取り組むべき主題をより個人
的な資質に支えられて、湧出したという事なのだろう。美術史的、美術界的な規範から解 き放たれた自由な表現への希求といってもいいかもしれない。とすれば、彼女の作品に は、自然と都市文化の中での共生の可能性の問いと共に、如何に表現するかの自問もはら まれているという事になる。 と書いてきたが、一つお断りをしておけば、実は、私自身、まだ、この作家と一面識もな い。前出のブログで彼女の多様多彩な制作振りを知り、画廊から教わった彼女の母親・竹 久野生氏の著書『空飛ぶ絵師 アンデスから雲に乗って』(2011年、オフィスK)を読み、 その触発によって、本作家とその新作群に見えるのを楽しみにするにいたった思いを、気 儘に認めてみた次第である。彼女のハビトゥスのありようについては、作家本人に詳しく 聞いてみたく思っている。
正木基